今田美桜主演の映画『カランコエの花』は、2018年7月14日(土)より新宿K’s cinemaにて1週間限定ロードショー。
世界的に映画のテーマやジャンルとして浸透つつあるLGBT映画(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの略称)。
レインボー・リール東京グランプリ(東京国際レズビアン&ゲイ映画祭)のグランプリほか、映画祭賞のレース席巻し、5冠を含む計10冠受賞作の映画『カランコエの花』の感想と考察をご紹介します。
CONTENTS
映画『カランコエの花』の作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【企画・脚本・編集・監督】
中川駿
【キャスト】
今田美桜、石本径代、永瀬千裕、笠松将、須藤誠、有佐、堀春菜、手島実優、山上綾加、古山憲正、イワゴウサトシ
【作品概要】
LGBTが抱える問題を、当事者ではなく周囲の人々の目線から描き、2017年・第26回レインボー・リール東京のコンペティションでグランプリを受賞した短編作品。
また京都国際映画祭2017、第4回新人監督映画祭でも受賞を獲得し、演出にあたったは『尊く厳かな死』の中川駿監督。
映画『カランコエの花』のあらすじ
ある高校の2年生のクラスでは、この日、唐突に「LGBTについて」の授業が始まりました。
しかし、他のクラスではその授業は行われておらず、なぜこのクラスだけ?という思いが、生徒たちの好奇心に火をつけます。
「うちのクラスにLGBTの人がいるんじゃないか?」
生徒たちの日常は、まるで犯人探しのように波紋が広がるなか、年頃ならではの心の葛藤が起こした行動とは…。
映画『カランコエの花』の感想と評価
LGBTをはじめとする性的マイノリティへの注目は、“彼/彼女ら”がテレビ、新聞、雑誌などで広くとり上げられるようになり、近年ますます高まりつつあります。
映画も例外ではなく、以前からその嚆矢となって世界に訴えつづけてきて、いまや確固たるジャンルとして定着しています。
本作もその流れをくむものではありますが、ブームともとらえかねないこの状況に対して冷静に現実を見据える視点と、そこから問題の本質を見抜く洞察力、そしてそれを質の高い悲恋のドラマに仕上げる表現力で、同ジャンルのなかでも一線を画す作品となっているのがポイントです。
北関東の田舎町と思われる高校のあるクラス。生徒たちから“花ちゃん”と呼ばれる養護教諭(花絵)が自習の時間をつくり、黒板に大きく「LGBT」の文字を書きます。
そして「人を好きになるのは感情の問題」「恋に性別は関係ない」といったことを唐突に生徒たちに説きはじめるのです。
この特別授業をおこなったのがそのクラスだけだったことから、生徒たちにあらぬ憶測やいらぬ関心を呼び起こしてしまい、結果的にその無自覚な“善意”が、クラスのなかにいた性的少数者(桜)を学校から追い出してしまうことにつながります。
ここでは、だれがどんな失敗をしたのかを明らかにし、桜が本当に求めていたものとはなんだったのかを考えていきたいと思います。
言葉を教えることと、理解を広めることの違い
まずは言うまでもなく、事の発端である花絵の授業です。
「LGBT」という言葉を広げることと、その理解を広めることはまったくの別物です。
「恋に性別は関係ない」とは、現代では「太陽は東からのぼる」くらいに自明なことです。
それをただ伝えることで“教え”とするのは、自己満足以外のなにものでもありません。
恋に性別は関係ない、でも、だからこそ、“困っているひと”がいて、その困難を少しでも解消するような手立てがいまは求められているはずです。
「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う。」
これは性的少数者の生活に密着したドキュメンタリー映画『恋とボルバキア』(小野さやか/2017)のキャッチコピーです。
これとおなじことが“恋に性別は関係ない”にも言えるでしょう。肝心なのは、そのつぎを思考することです。
授業を当事者がいるクラスのみで開いたこと、生徒から「花ちゃん」と呼ばれ友だち感覚でつき合っていることなどを観察すると、そもそも花絵には教師としての力量が不足しているのが認められます。
LGBTについて通り一遍のことしか語れないのも、当然です。では花絵はなにをすべきだったかといえば、保健室で「好きなひとが女の子なんです」と打ち明けた桜の話をただ聞いて、ともに恋の楽しさを分かち合っていればよかったのではないでしょうか。
話を聴く「傾聴」という支え方
映画のラストにあたる「7月1日 金曜日」のシーン。時系列を前後し、桜が花絵に「恋バナ」をしています。映像はエンドロールを映し、好きなひとができた嬉しさと喜びでいっぱいの桜の声と、花絵の相づちだけが聴こえてきます。
「その子、いっつもニコニコしてて。」「うん。」「一緒にいると私もすごく笑顔になれるんですよね。」「ふーん。」「一緒に帰ったりするときも、すっごくドキドキするんですけど、なんかちょー幸せな時間で…」
まさに「恋バナ」といった感じです。花絵は前述のように生徒との距離が近いので、聞き役にはうってつけの存在。
本来であれば「保健室に恋の話をしに来た女子生徒」で終わるはずですが、花絵は週明けの「7月4日 月曜日」に「特別授業」という選択をもって応えてしまうのです。
いったいなぜでしょう? 「恋に性別は関係ない」のであれば、保健室での恋バナは、わざわざ問題提起するまでもありません。
桜の嬉々とした声からは、「LGBTの悩み」を訴えるよりも先に「恋の楽しさ」があふれ出ています。
それをことさらに取り上げるというのは、花絵が「恋に性別は関係ない」とは“思っていない”からでしょう。
自然に受け止めればいいものを、どこか異質なもの出会ったという気持ちが強いため、個人の話を一足飛びに社会化してしまったのです。
無言で示した1回目の「告白」
花絵の対応のほかに、桜は友人との関係でも2回「断絶」に直面しています。
一度目は、想いを寄せる月乃との帰り道。桜が月乃のこぐ自転車の荷台に乗って、夕景をバックに走る美しいシーンです。
このときすでに、月乃は友人の沙奈から「噂の人物は桜である」ことを知らされています。
自転車の二人乗りでは自然と体が密着するかたちになります。
互いを意識して生まれる沈黙の間。桜はおもむろに頭を月乃の背中にもたれかけます。「なに?」とぎこちなく笑って答える月乃。
つづいて桜の両腕が腰に回ってきます。月乃はなにも言うことができません。
これは紛れもなく、桜の告白でした。
無反応な月乃をみてか、つづく場面では桜が途中のバス停で降り立っています。
「あのね…本当はこんなかたちで言いたくなかったんだけど…つきちゃんにはちゃんと理解してほしかったから。」
桜は「月乃がすでに知っている」ことを知っていました。そのうえで、文字通り全存在をかけた“告白行為”に及んだわけです。
当然、月乃は正面きって返さなければなりません。しかしながら彼女は「どうしたの、なんかあった?」と別の配慮をみせてしまいます。
アッと口をすこし開き、言葉をつぐむ桜。しばらくして「ううん…いいや」とバスに乗り込みます。
座席で涙を流す桜の表情をとらえるカメラ。孤独や絶望を一身に背負ったひとりの女子高生が、そこにはいました。
勇気をふり絞った告白さえ、受け止めてもらえない。はたしてこれほど悲しいことがあるでしょうか。
友人想いの月乃のことですから、親友を傷つけまいとして出した返答だったとは思います。
でも「レズビアンは桜ではない」と気づかう姿勢は、つまるところ自分に向けられた優しさでしかなく、桜の胸に届くことはないばかりか、隔たりをいっそう深めてしまうことになりました。
尊厳をかけた2回目の「告白」
それでも、桜はもう一度「告白」を試みます。翌朝登校した月乃の目に飛びこんできたのは、「小牧桜はレズビアン」と書かれた黒板でした。LGBTの“授業”以降、「キモイ」「ヤバイ」と冷やかす雰囲気があったクラスにも、にわかに緊張が走ります。そこに当の本人である桜がやってきます。
「違うよ、桜は違うよ……桜はレズビアンなんかじゃない!」
月乃は桜を“守る”ため、みずから黒板消しを手にとり、必死になって落書きを消しはじめます。
それを悲痛な顔をして見つめていた桜は、教室を飛び出します。「だれも気にしてないから大丈夫」と駆けつけた友人たちに、桜はこう言い放つのです。
「なんでかまうの! ……ごめん、ごめんね、あれ、黒板に書いたの私なんだ。」
この告白が意味するものは、なんでしょう。前の日に月乃を抱きしめた「告白」は、「レズビアンだという噂をなにも知らない」という月乃の姿勢で、「なかったこと」にされてしまいました。
そのため今回は、自分から“レズビアン”であることをカミングアウトし、もう一度「自分」と向き合ってほしいと諸刃の剣で斬りつけたのです。
“レズビアンじゃない”、その点をもってかばおうとした月乃の行動は、「レズビアンであることは恥ずかしい」とするクラスの認識そのものは否定せず、むしろ強化するように働いて、またもや桜の尊厳を深く傷つけてしまうのです。
しかもそれが、一生懸命に桜を想ってとった行動だからこそ、桜はもうどうしようもなくなり、いちばん大切なひとの笑顔を奪ってしまったという自責の念もあいまって、次の日から学校に行くことができなくなります。
「あなたを守る」という花言葉を持つ、カランコエ。
桜がいなくなった教室で、月乃は髪を束ねていた赤いカランコエのシュシュを、強く握りしめてはずしました。
まとめ
映画『カランコエの花』は、2018年7月14日(土)より新宿K’s cinemaにて1週間限定ロードショー。
どうすれば桜を守ることができたのか。そもそも彼女は“レズビアン”ではありません。
恋をして、胸がいっぱいなってつい恋バナをしてしまうような、どこにでもいる普通の高校2年生です。
その対象が同性である、ただそれだけで「LGBT」の授業がおこなわれ、“レズビアン”という枠に無理やりあてはめられたことで、恋路がふさがれてしまいました。
桜が求めていたものは、「LGBT」視点からの啓蒙でもなんでもなく、好きなひとと過ごす幸せな時間であり、つくったお菓子をおいしそうに食べてくれる姿に癒しを得たり、ちょっと抜けているところにかわいさを感じたりしながら毎日を期待して生きる、そういうことだったのではないでしょうか。
2度の「告白」に対し、人生経験のすくない高校生が適当に受け止めるのは、たしかに難しかったかもしれません。
そもそも、ひとりの生徒が自身の尊厳をかけざるをえない状況を招いてしまったこと自体に、過ちがあったはずです。
授業を開くのであれば、「LGBT」という単語を持ち出してもなんの意味もなく、多様な人々がおなじ空間で適切な人間関係を築いていく方法、あるいは理解の仕方こそ学ぶ価値があります。
残念ながら、「善意」に突き動かされた無教養な教員がいたばかりに、収拾のつかない悲劇を生んでしまいました。
一方で、その「悲恋」が青春映画として突出した出来に昇華しているのもまた確かで、同性への恋心と瑞々しい心理描写という線では『藍色夏恋』(イー・ツーイェン/2002)の空気感にも通ずるものがあります。
そのため本作品『カランコエの花』を鑑賞する際には“LGBT映画”と構えるのではなく、優れた青春映画を観る心持ちで少年少女の表情や感情を丁寧に読みとり、その一つひとつを味わうことをお薦めします。