連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第41回
こんにちは、森田です。
今回は9月20日に全国公開されたアニメーション映画『HELLO WORLD』を「ポスト・セカイ系」の1本と位置づけ、紹介いたします。
『HELLO WORLD』のあらすじ(伊藤智彦監督 2019年)
(C)2019「HELLO WORLD」製作委員会
舞台は2027年の京都。
なにをするにも臆病で内気な男子高校生・堅書直実(北村匠海)のまえに、10年後の“現実世界”からやってきたという未来の自分・ナオミ(松坂桃李)があわられます。
ナオミは、直実の生きる世界は「3D化された歴史」であり、量子記憶装置・アルタラが管理している“記録世界”であるといいます。
すなわち、ナオミは「現実」から「コピー空間」にアクセスしてきたわけですが、その目的は高校時代に落雷によって命を落とした恋人の一行瑠璃(浜辺美波)を救うためでした。
直実は記録の一部を書き換えられるアイテム“神の手”を授けられ、ナオミの過去をなぞりながら事故を回避しようと画策しますが、記録を保とうとするシステム“狐面”が彼らの行く手を阻みます。
システム側からすれば当然、保存された過去を改ざんすることは許されません。
瑠璃に想いをよせる直実は、その距離を近づけてくれるナオミのことを先生と呼び、「過去の自分」と「未来の自分」によるバディで狐面たちとの戦いを繰り広げていきます。
伊藤智彦監督のメッセージ
(C)2019「HELLO WORLD」製作委員会
たとえ世界が壊れても、もう一度、君に会いたい──。
これは本作のキャッチコピーです。
正直、「またこの手のアニメか」と思われる方もすくなくないでしょう。
伊藤監督自身も、映画公式パンフレットにおいてまずこう述べています。
おそらく世の中からすると、この作品も『君の名は。』(16)以降の1作として見られるだろうと思っていたので(笑)。あの作品のおかげでアニメ映画界が活性化している中、どう自分のやりたいことを忍ばせながら独自の作品を生み出すかという状況でした。(公式パンフレットより)
とくに隠されていないように、時空を超えたり、ふたりの関係が世界の運命と直結していたりと、本作と「セカイ系」との接点をみつけることは簡単です。
ではそこでの監督の視点とは、なんでしょうか。
『マトリックス』の現実世界のようなディストピアなら、あえてそんな世界に戻らなくてもいいでしょうと。仮想世界で毎日が楽しく暮らせるなら、それはそれで別に構わない。(同上)
たしかに本作の設定は『マトリックス』(1999)の構造を想起させますし、純粋に楽しさだけを追求するならば『レディ・プレーヤー1』(2018)の発想にも近しいといえます。
もちろん参考にしている映画はそれだけでなく、『オーロラの彼方へ』(離れた時間にいる者同士が出会う)、『13F(サーティーン・フロア)』(3重の世界構造)、『バニラ・スカイ』(眠りのなかの世界)、『ゼーガペイン』(サーバ内の世界)、『インセプション』(入れ子構造)、『LOOPER/ルーパー』(未来からの自分)など、ほかゲームやライトノベルもあわせると、枚挙にいとまがありません。
そのためメッセージをくみ取るうえでは、それら影響関係や類似点を指摘するよりも、似た作品を生みだす現代とはどのような時代なのかを考察したほうが有意義です。
たとえば実写でもアニメでも、“並行世界”をあつかったものや、“異世界”を描いたものを目にすることが多くなりましたが、いま人々はなぜそれを求めているのか。
一方、現実と虚構を見据えるものでは、古くは「胡蝶の夢」の説話が有名であり、その関係はたえず人間の想像力をかきたててきたといえます。
そして伊藤監督がその蓄積から現代に提示する視座は、このようなものです。
多分、今の日本は緩やかに死んでいく過程にあると思うんですけど、俺はもう少しポジティブなビジョンを描きたいと思っているんです。(同上)
この姿勢は、ある世界の“崩壊”に立ち会っても「ぼくたちは、大丈夫だ」と祈りあう少年少女たちを描いた『天気の子』との同時代性を感じさせます。
ポスト・セカイ系とは
(C)2019「HELLO WORLD」製作委員会
物語の主軸は瑠璃を救えるか否かにかかっていますが、まずはその前提となる認識に注目してみます。
直実は自分の世界がコピーのほうだといわれても、それほど動揺することもなく、受け入れます。
これはまさしく現代的な感覚ですね。
この情況ではもはや、どちらが本当の世界かを探るミステリーや、どちらの世界を選択するかというドラマは生まれません。
現代はポスト・トゥルースの時代といわれ、世界各国でフェイクニュースが取り沙汰されますが、認識のなかで葛藤がない以上、自分の「セカイ」をでる機会が乏しくなります。
終盤ではナオミのほうも記録世界の住人だったとわかるのですが、真偽は不明です。原理的にどこまでが入れ子構造の舞台なのかを作品内で判断することはできないからです。
共通しているのは、だれもがそれぞれに与えられた世界で生きている、という認識だけ。
「新世紀エヴァンゲリオン」に代表されるセカイ系の作品群は、おもに90年代の終末観(終末思想)を背景として制作されてきましたが、人類の運命が託されたひとつの世界などなく、無数の並行世界が存在しているという想像力のなかでは、セカイの性格も変わってきます。
そこでは、かつてセカイ系の主人公が背負わされていたようなロスジェネの心理や実存の悩みが見受けられません。
自己がデータであると知ってもなお、素直に彼女がほしい、と行動する直実がいい例です。
それは単純に“動物化”といえるかもしれません。しかし、こうも考えられないでしょうか。
自分について深く考えるまえに、だれかのために行動してしまう性格がある、と。
その行動こそが、真偽不明で根拠のない世界と自分のセカイをつなぎとめる要になる。
ひとりではただのデータに過ぎない存在も、他者のまなざしのなかで受肉する。
これが監督のいう“ポジティブなビジョン”ではないでしょうか。また期待をかけるべきポイントでもあるでしょう。
「きみとぼく」という関係が「情報の網目」で立ちあらわれる物語を、便宜的に「ポスト・セカイ系」と呼んでみます。
ポスト・セカイ系の課題
(C)2019「HELLO WORLD」製作委員会
ネット空間であれ、パラレルワールドであれ、自他の境界が曖昧であることは、他者への感度を高めます。
うまく働けば他者を歓待し直実とナオミのようにバディを組めますが、下手をすれば他者の排除につながります。
だれかのために行動して“しまう”と書いたのは、正義の名を騙っておこる「炎上」を念頭に置いているからです。
ポスト・トゥルースの時代(ポスト・セカイ系)で問われるのは、ありあまる共感能力から“正しい”選択を導くことといえます。
ここでいう正しさとは、「他者との共生にいたる道」としてとらえてください。
『HELLO WORLD』が提示するポジティブなビジョンでは、恥ずかしがり屋の直実が『決断力』と題する書籍を読みながらもあまり効果はなく、唯一、他者を想う気持ちに突き動かされたときに“決断”できる、というものでした。
そして瑠璃を「はじめて自分で選んだもの」とし、あやふやな生の根拠に据えるのです。
これは『天気の子』にもいえることですが、所与の世界で生きる希望を各人の選択に委ねる場合、“互いにとっての大丈夫”という存在がいなければ、正しいセカイを築くことは難しいと感じられます。
帆高にとっての陽菜も、直実にとっての瑠璃も、出会いそのものは運命的なものです。
ポスト・セカイ系は、意識が否が応でも他者に向くという点では現実をとらえていますが、ふたりの出発点をまだ運命に頼りすぎるきらいがあり、それを別の枠組みで語る言葉が待たれます。
新しい世界の場所
(C)2019「HELLO WORLD」製作委員会
しかしながら、『HELLO WORLD』では直実(ナオミ)のほうが瑠璃によって記録の介入を受けて救われたという可能性を示唆することで、「きみとぼく」を解放するための布石をすでに打っています。
実体をもたない(確認できない)世界であるならば、国にも性別にもとらわれないフラットな人間関係を想像することが可能です。
だれかを救うのでも、だれかに救われるのでもなく、他者と他者とが結ばれている世界。
「まだだれも知らない、新しい世界なんだ」
と直実と瑠璃が虚構世界の空を見あげるとき、その瞳には「世界」の見方を変えうる新たな想像力が宿っていたはずです。